遠く 知らない街から 手紙が届くような

ビジネスにも自己啓発にも興味が無い経営者の嘆き

何も起きない気がした 何かが起きる気もした

ふと永い眠りから覚めたときにはもう昼前を過ぎていた。ベランダから慣れない煙草を吹かしながら、空のやたら青さが今日もさえない一日を予感させた。そんな空白ともいえる時間を過ごしていると、確かに何も起きない気がした。それでもよかった。ただ、掌の中にはなにかが起きるのではないかという淡い空気感があったから。なんというか、6帖のワンルームマンションにいながらその閉塞感の中に世界の広がりが常にあった。

気づけばそのような黄金時代は過ぎ、今は訳もなく身震いするような輝きを人生に見出そうという気概を感じなくなってしまった。何かが起きるかもしれない、明日になれば自分とは違う誰かになれるかもしれない、素晴らしい人や文学作品、光景を目の当たりにし人生観を覆されるのではないか…そんなことは起こりえないとわかっていても「何か」を期待できたあのころとは違い、今は何か行動を起こす前にある程度分かるのだ。この人と会うとこれくらいの楽しさで、これを食べるとこれくらいの美味しさで、この映画を見ればこれくらいの楽しさを得られるーーーそんな風につまらない勘定ばかり得意になった。あるいは得意になったつもりになっているのかもしれない。「予想だにしなかった」ことなんて起こる余地が入り込めない寸分の隙もない生活。

ああつまらない文章で人生のように広がりのない文脈だ。人生ってこんなに絶望的だったっけ。

『ストーナー』って平凡か?むしろ真逆だろ

最近各所で絶賛されている『ストーナー』を読んだ。

宣伝文句としては「これは平凡な教師の平凡な物語に過ぎないが悲しく美しい完璧な小説である」とか何とか。割と「平凡」とか「普通」とかそういった類の表現が強調されていたように感じる。

私にとって平凡映画ドラマエッセイは私の生活に欠かせない一部となっていたため、このような評価がなされた本作については気になっていた。ただ手に取ってみたのだが本作の主人公や物語に対しては全く平凡で普遍的なものとはどうしても思えなかった。

むしろ真逆である。以下ネタバレもあるので気にされる方は下記の項については注意願いたい。

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まず主人公のストーナーは1910年にミズーリ大学の農学部に入る。両親は貧しい農家であるが息子に自分たちのような苦渋を味あわせたくないがために、これからは教養が必要だと身を切り詰めて入学させたのである。

もちろん将来的には息子に対しより建設的に家業を発展させることを期待し農学部へ入学させたのだろうが、しかし彼は一般教養の課程で出会った文学の美しさに身を焦がし親に断りもなく文学部に移り文学の徒として一心不乱にアカデミックの世界に浸ることになった。

その熱心さが見初められミズーリ大学で教鞭を振るうようになるのだがそのためにはさらに数年間の学びが必要になり両親の想いを裏切ることを心苦しく思いながらも文学の魔力にとりつかれたストーナーにはそれを選択するしかなかったのである。

その後は簡単に述べていくが、

  • 内気で地味な性格で描かれていたストーナーはパーティーで年下の美しい社長令嬢(ある銀行頭取の娘だった)に一目ぼれしてから彼女にガツガツアピールし二週間のうちに結婚までこぎつける
  • しかしながら彼女が病的なヒステリック持ちと判明し彼女からはなぜか恨まれ陰湿な家庭内いじめを受け続ける
  • 40代に差し掛かった頃、教え子と恋愛関係になり愛欲にふける、また真実の愛とはなんぞやということを理解する
  • しかしその不適切な関係が学内に広まり、ストーナーと確執のある上司からはそれを出汁にされ教え子は街を去らざるを得なくなる
  • 確執のいきさつとして、その上司が手塩にかけていた生徒の品行をめぐりストーナーは己の信念を貫くべく批判的な態度を取り続けたことでその上司のメンツを潰したことがあった。それ以降ストーナーは大学内では徹底的なまでに冷遇されることになったがストーナーは自身の姿勢を崩さず高貴な心を持ち続けた
  • 数年後悲恋に終わった元教え子は他の大学で研究を続けており、ストーナーは彼女の著作を手にしたのだが、冒頭には「W・S(ウィリアム・ストーナー)に捧ぐ」という一説が携えられていた
  • 娘が大学一年生のころに良く知りもしらない男子の子を身ごもり結婚に至ったものの旦那はその年に戦死する
  • 上記のような苦境がありつつもストーナーは自身の境遇に対し不満も文句も言わずに常に自身の在り方を見つめ続けた

全体的にはこんな感じのストーナーの人生を描いている。なお細かいポイントを見ていくとところどころ違う点もあるだろうがそれはご容赦願いたい。

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やはりこうやってまとめてみても思うのだが全く平凡でもないしストーナーは教師としても優れた教育者であることが描かれている。

ここで私が言いたいのは、ストーナーの人生は普遍的な人生というにはそれとはあまりにもかけ離れているのではないかということだ。つまり宣伝文句と内容はあまり一致していない。もしも彼を凡庸だと表現される方がいらっしゃるとしたらハリウッド映画の見過ぎだと思う。現にトムハンクスによる「これはただ、一人の男が大学に進んで教師になる物語に過ぎない」というような評価が表紙カバーにささげられていた(彼には『かもめ食堂』とか『めがね』とかそういった映画ばかり見てほしい)。

また私が敬愛するオモコロの原宿という男はこの作品に対し「普通さこと、固有かつめちゃくちゃ劇的なんだよな~!」という書評をしている。人生って見渡してみると平凡に思えるけれど色々なドラマがあるのだという彼の想いが展開されるが、確かにそれもそうだなという気がしてくる。近くで見ると何の変哲もないけれど、遠くから見るとどんな人生にもドラマがある。

ただ私はこうも思う、どんな人生でも近く虫眼鏡で観察してみると人々の感情の揺れ動きや些細な変化などが生活そのものであり、その集積がドラマになるのだと。

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ストーナー』では悲しい出来事がたくさん起こるが彼は幸せだったかどうか、正直私には判断がつかないし、自分が彼だったらやりきれない思いで何度死のうかともうことだろうと思う。ただストーナーは物語の初めから最後まで一貫してストーナーであり続けた。私は彼が普通とも平凡とも思わない。

夢から醒めない

夢から覚めて、ああ俺は随分前から既に壊れていたんだなと悟った。甘美な夢に足を取られいつまでたっても起き上がれなかった。

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信じられるかい?あの頃僕は19歳で君は21歳だった…そして僕の記憶が正しければもう既に君は30歳になったはずだ。

初めて東京に来て初めて君と出会い東京にはこんなにも美しい人がいるのかと胸を打たれたことを鮮明に覚えている。一方の僕は田舎から出てきたまるで女性を知らない10代だった。この人は別世界の人間だと直感した。それくらい君を遠くに感じた。

それから数か月もしないうちになぜ君は唐突に交際を始めようと言いだしたのだろう?今となってはもう確かめようがない。断片的に思い出してみると、確か君が純情な僕を面白がりちょっかいを出したのがきっかけだったと思う。その謎の行動が全く理解できなかった僕はそれが僕を苦しめているのだと打ち明け、もうやめてほしいと言った。ちょっかいを出せなくなるのは嫌だから、それなら付き合おうと君は言った。今考えると訳がわからないのだが、あの頃は想像もしないことが起きたりする時代だったのだ。

ちょっとおかしな人だと思った。ただ君は心から信頼し愛していた人から裏切られとても傷ついていた。あるいは君は僕のことをその傷を癒すための塗り薬だと判断したのかもしれない。その憶測は置いておいて、その後も一緒の時を過ごす中でただ君が傷つき続けているというその事実が僕をとても傷つけた。君は過去愛し自分を傷つけた男のことを忘れられず僕のことを本当に好きになれるかわからないと言った。

それでも僕は君と根気強く向き合い続けたと思う。君の美しさと強さが本当はその弱さに裏付けられたものだと気づいてから、何とも愛おしく感じたのだ。ただそれは僕だけでなく、何があっても離れないと思い込みお互いの理不尽な想いをぶつけられる存在として君は僕を必要としていたのだろう。多感で何にも縛られず世間というものが少なくとも小さなコミュニティにのみに存在していたあの頃、どこにも行けない二人の滅茶苦茶な関係の中で君の傷は段々と癒えたように感じた。

それでもそんな君といることは僕にとって精神的な自傷行為だった。傷つき君のことだけを考えることで、自分がいま生きていること・自分が自分であることを感じた。それが辛く心地よかった。

しかし正直言うと僕は君のその傲慢で男勝りな気性に耐えられなくなり疲れ果てていた。君も潮時と悟ったのだろう、君は僕に別れを告げた。

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それから僕は何もかも忘れようと一日に映画を3本見てバイトとインターンに明け暮れ授業は出席だけ取り週末は色々な女の子と遊んだ。君のことはすぐに忘れられた。君からその後も何度か会いたいと連絡が来た。その連絡は一切僕の心を動かすことなくひたすらに無視を続けた。

2年経ち就活で行き詰っていたころ、久しぶりの連絡で一度だけ君に会うことにした。平日の昼間に古い街を昔の様にひたすらに歩いた。あの時の空気感は淡い西陽に満ちたワンルームマンションを思い出させる。切なく優しい時間だった。

食事をしながら、君は仕事に就く中でそのプライドの高さから周りには強い女性として振舞っていたが本当は精神的にもつらいのだと弱々しく僕に伝えた。僕を頼りたいのだと言った。ただ僕はそれを聞き食事がのどを通らなくなり吐き気を催して何も話せなくなってしまった。君はそんな僕を見て心配しながらも少し嬉しそうだった。

そのあと君は一人になりたくないと僕を自宅に招いた。特に僕たちは触れ合うわけでもなく一定の距離を取って無言で過ごした。どんどん空は暗んでいった。

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それから色々な女性と出会い人並みに恋をしたけれど成就するわけでもなくまともな恋愛に至らなかった。しばらくは君のことを思い出しもしなかったがここ最近、あの人はどんな形にせよ真剣に俺と向き合ってくれたんだなと思うようになった。どれだけ傷ついたにせよ掛け替えのない時間だったと思う。

今はもう君は遠くにいる。それは僕が君と初めて出会った時に感じた距離感以上かもしれない。そして10代の頃に出会った美しい女性がもう30代に差し掛かったと考えるとそれはもうちょっとした歴史だと思う。

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もう戻りたいとは思はない。だけどつい最近君の夢を見た。目を覚ました時、僕はもう既に自分が壊れて空虚な塊のように思った。君と一緒にいたときの痛みがじんと胸に残った。その痛みは泣きたくなるほど懐かしく忘れられたくないと思った。過去にとらわれ自分を傷つけることで自分が自分であろうとしたのかもしれない。

ただこうも思う。自分がもう既に壊れており損なわれたものなのだと思い込みたかっただけなのかもしれないと。ああ、現実と向き合い自分を修復する覚悟をすべきなのかもしれない。

 

今週のお題「最近壊した・壊れたもの」

 

知らない街から届いた手紙の様に

当時新卒入社したての頃、銀座のクラブで働いていた同い年の女の子とひょんなことで知り合いそれからしばしば会って酒を飲んだ。僕はホステスを職業とした女性と知り合うのはそれが初めてで最初の頃は緊張もしたものだが、お互い損なわれ続けることについてはちょっとした権威だったためか、そういった欠落感というか孤独感がなんとなく共通項として存在しており親近感を生んだのだと思う。だからすぐに仲良くなった。

ただ我々の奇妙な関係はそう長くは続かなかった。ある日一緒に酒を飲んでいると彼女は結婚と同時に本業の仕事もホステスも辞め彼のいる地方へ引っ越すのだと言った。そしてしばらくは会うこともないだろうということで我々は大いに酒を飲んだ。あの日、「銀座の街や集団から私たちはハブられているんだよな」と半ば当てつけのように呟きながらおよそ「銀座のホステス」とは思えないガラの悪い千鳥足で歩いていた君のことをよく覚えている。

生活圏が変わったとしてもきっと近いうちにまた安い酒を飲みながら君は僕の知らない誰かの悪口を言って僕を笑わせるだろうと彼女の境遇を聞いた時にはそう思ったが、結局その日が別れとなった。気づけば唯一の連絡手段であったSNSと彼女の生活を記したブログは削除されていた。

このありふれた別れは僕の人生に特に大きな影響を与えうるようなことではないと思っていた。もちろん断ることでもないが恋愛感情もなく我々は人生の輝き損ねた一瞬の隙間ですれ違った偶然の理解者同士に過ぎなかったからだ。ただ不思議なことに、その別れというか喪失感は時が経つにつれ存在感を増しいつまでも僕の心を捉えて離さず、時々彼女のことを思い出しては心が痛くなるようになった。

そして僕はまたばったりどこかで君に会えるだろうと高をくくってもいた。しかしそのいつかは未だに現れず僕の生活習慣も大きく変わり長くインターネットの世界から離れていたため、彼女とはもう無縁の人生となった。

ただ、僕はいつかまた君に会えるんじゃないかと思い続けている。

あるいは君ならなんとなく噓をついた気持ちのまま生き続けている僕の空虚感を理解してくれるのではないかという淡い期待を抱いているのかもしれない。君がもう既に損なわれた人だからこそ、そんな勝手を許してほしい。

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僕がいつか何かしらの書籍を出したら(当時僕は物書きになるのが夢だった)君はそれを大量に買って近所に配って回ると言った。よせよと僕は笑い飛ばしたが、彼女の目は本気だったように思う。少なくとも僕はそう感じたし、今でもそう信じている。

知らない街から届いた手紙の様に、いつか君にこの文章が届いたらとてもうれしい。