遠く 知らない街から 手紙が届くような

ビジネスにも自己啓発にも興味が無い経営者の嘆き

蛍が飛び交う頃きみは

僕は蛍をみたことがない。理由は二つある。まず、単純に蛍をみる機会に巡り合わなかったこと。そして、大学生のうちに一緒に蛍をわざわざ見たいと思える人に巡り合えなかったことだ。

 

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毎年この季節になると、早稲田大学の近くにある椿山荘というホテルが、庭園に蛍を放つ「蛍の夕べ」という催しを行う。大都会の中心にそんな催しがあるなんてとても素敵だ。曇りがちな都会の夜にこそ、孤独な人々を照らす星が必要であるように、都会にこそ忘れがちな情緒を思い出させる蛍の灯りが必要なのだと思う。

 

けれども、僕は蛍をみたことがない。この季節になれば、大学のそばで貴重な命を燃やしながら蛍が飛び交っているにも関わらず、だ。

 

…この催しの存在を教えてくれたのは、昔付き合っていた年上の女性だった。

 

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彼女も僕も村上春樹の『ノルウェイの森』の大ファンだった。よく大学のそばを二人で歩いた。作品の主人公である ”わたなべ“ が下宿している寮は、大学の近くにある学生寮をモデルにしたものだということも、その姿を消す前に “突撃隊” が蛍の詰まった瓶を主人公に渡すシーンは、大学のそばにある椿山荘のその催しを汲んでいるということも、教えてくれたのは彼女であり、それは彼女の隣を歩いているときだった。

 

残念ながら、彼女と付き合い始めたのは僕の大学1年生の夏休みが始まる頃だったので、その年に蛍を見に行くことは叶わなかった。彼女とは、くっついては離れる、どうしようもない関係をずるずると続けた末、今まで何事もなかったのように綺麗に別れた。その頃には蛍など頭の片隅にすらなかった。

 

そのような関係が終わってから、もうじき今年で二回目の初夏を迎える。今年も「蛍を見にいこう」なんてキザな誘いに嬉々としてついてきてくれるような女性とは巡り合えなかったし、そんなマトモな関係を人と築く努力を、いやマトモに人を愛せるような自分に変わる努力を、怠ってきた。

 

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それは普通の人が「今年も一緒にクリスマスを過ごす恋人ができなかった」と嘆くのと全く同じことで、僕は「今年も蛍を見に行くことができなかった」と嘆くだろう。

 

初めての何かを知るなら、大切な人とが良い。バカみたいかもしれないけど、そんな想いがずっと心の中にある。だから蛍も見にいかないし、浅草にも行ったことがなく、もっと言うと江の島にも行ったことがない。これが自慢になればいいのだが、悲しくも自慢にはならない。

 

 

今年も、蛍が飛び交い始める。そんな折り、僕は誰の顔を思い浮かべればいいのだろうか。正直見当もつかない。もうそろそろマトモに相手を見つけるのは諦めろ、と、日が暮れるとより一層荘厳な佇まいを携えるアイツに言われているかのようだ。

 

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江國香織の「あとがき」が素敵すぎる三作品を紹介する

僕は江國香織の小説が好きです。

 

 

彼女は恋愛小説の女王と称されることが多々あるため、20歳そこそこの男である僕が彼女の小説が好き、と言うのはちょっとだけ恥ずかしいものがある。 だけど彼女の小説、とても良いんですよね。静かに燃え、夕日が射す様な世界観はいつまでも浸っていたくなる。

 

 

特に彼女のあとがきが好きです。見た目も声も好きです。余談ですが彼女の小説を読んでおくと、ある程度読書する女性に対して話題提供の切り口にもなるのでオススメです。これは本当に余談でしたね。

 

そんなわけで彼女のあとがきから三つの言葉を紹介します。

 

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江國香織の「あとがき」

今回紹介する作品は

 

・『きらきらひかる

・『落下する夕日』

・『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』

 

です。どれも大好きな作品。

 

きらきらひかる』のあとがき

まずはあらすじ。

 

本作は、アル中で情緒不安定な笑子と、医者で同性愛者である睦月の結婚生活をテーマにした小説です。

完ぺきな人間はいません。本作が描くのは、脛に傷がある者同士がお互いを補完し合い、時には傷つけ合い、それでも離れずにはいられない、そんな男女の普遍的な生活なのです。

 

そして、その小説のあとがき。一部抜粋です。

 

 普段からじゅうぶん気をつけてはいるのですが、それでもふいに、人を好きになってしまうことがあります。

 ごく基本的な恋愛小説を書こうと思いました。誰かを好きになるということ、その人を感じるということ。人はみな天涯孤独だと、私は思っています。

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 素直にいえば、恋をしたり信じあったりするのは無謀なことだと思います。どう考えたって蛮勇です。

 それでもそれをやってしまう、たくさんの向こう見ずな人々に、この本を読んでいただけたらうれしいです。

 

どうでしょう。瑞々しく透き通るような優しい言葉だと思いました。

一人だけど、一人じゃないと感じたくなる瞬間。

 

誰もがどうしようもない寂しさを抱えていて、そんな寂しさを満たしてくれるたった一人のために苦しさを背負って生きるというのは、確かに基本的な恋愛なのかもしれない。

 
 

『落下する夕日』のあとがき

 

 

まずはあらすじ。

 

8年同棲していた男が出て行って、それと入れ替わるように、その男の新しい想いである不思議な魅力を持つ華子が、梨果のもとに押しかけてくる…そうして、攻めることも逃げることもできない三人の奇妙な生活を描きます。 

 

そして、以下が小説のあとがき一部抜粋。

 

 こころというのは不思議です。自分のものながら得体が知れなくて、ときどき怖くなるほどです。

 私の心は夕方にいちばん済みます。それはたしかです。だから夕方の私がいちばん冷静で、大事なことはできるだけ夕方に決めるようにしています。               

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 子供のころ、自転車に乗っていて、ころぶ数秒前には不思議な透明さでそれを知っていました。ああもうすぐころぶなあ。そう思って、ちゃんと、ころんだ。夕方には、何かそういう種類の透明な冷静さがあります。

 

 

 夕日が沈みゆくのが一瞬であるように、この人も瞬間を愛したのですね。

 

 

 

『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』のあとがき

あらすじは特にありません。恋をすることに躊躇わなかった女性の人生を切り取った、心に沁みとおる短編集です。

 

以下があとがきです。

 

 瞬間の集積が時間であり、時間の集積が人生であるならば、私はやっぱり瞬間を信じたい。

 SAFEでもSUITABLEでもない人生で、長期展望にどんな意味があるのでしょうか。

 

彼女のあとがきを書いているのは、作品の登場人物でもあり、その作品の延長線上を生きている彼女なのだ、ということが当たり前のように感じられる。

 

また、作品から抜粋したい、一文があります。

 

   It’s not safe or suitable to swim.

 

 ふいに、いつかアメリカの田舎町を旅行していて見た、川べりの看板を思い出した。遊泳禁止の看板だろうが、正確には、それは禁止ではない。泳ぐのに、安全でも適切でもありません。

 私たちの人生に、立てておいてほしい看板ではないか。

 

僕だって、人生がこんなに危険で不安定なものだなんて、誰にも教えてもらえなかった。

 

 

 

 

あとがき

 

彼女に倣って、気の利いたあとがきを書いてみようか、と思ったのですが。そんな簡単に書けてしまっても仕方ないから、あえて当たり前のことを書こうと思います。

 

一様に行かないものを、ひとまとめに語ろうとする人が好きになれません。人生はそんなうまく行かないものでしょうか。それでは、私たちは何のために生きて、ものを考え、期待してしまうのでしょうか。

 

人生なんてものを信じる余裕などありません。

だから、今この瞬間が手からこぼれないよう、必死に掬い上げています。

 

そんなことを改めて感じさせてくれる彼女の作品が、好きです。

 

足の親指と人差し指の関係について

ベランダで煙草を吸いながら、ふと自分の素足をみた。

 

足の人差し指が、親指よりも長い。それは当たり前のことかもしれないけれど、他の人の足の指の長さなんて気にもかけたことがなかったので、改めてまじまじと見るとこの1センチ弱の長さが何故だか誇らしくなった。

 

 

小学生の頃、バスケットボールのクラブ活動に励んでいた頃の話をしようと思う。

 

特にバスケットボールが好きだったわけでもない。小学生ながら、練習はかなりきつかった。週末だけ来る監督はヤクザのような風貌でひどく恐ろしかった。先にクラブに入っていた一個下の筋肉バカには「新米のくせに生意気なんだよ」と陰で脇腹をつねられ続けた。しかし、大体のメンバーは仲良くしてくれたし、そこそこ楽しかった。それでも練習はかなりきついし、監督はヤクザのように恐ろしかったので、早く辞めたいと思っていた。

 

 

監督のほかに、20代後半くらいの女性がコーチとして毎日練習の面倒を見ていた。かなり厳しい人ではあったが、練習の後はいつも人懐っこい笑顔を浮かべ、一人一人の子供のことをよく見ており、そんな優しさを隠し持った人だった。

 

練習中、足首をくじいた。結構なくじき方だったので、練習を一時抜け、コーチにテーピングをしてもらった。彼女は僕のバスケットシューズの紐を丁寧にほどき、色々な匂いが染みついた靴下と一緒に脱がしてくれた。

 

彼女がその時かけてくれた言葉を、今でも思い出す。

 

 

「君の足の人差し指は、親指よりも長いんだね」

「…何か意味があるんですか?」

「努力すれば、お父さんやお母さんよりも偉い人になれるっていうことなんだよ」

 

 

この言葉は、彼女にとってケガした子供をケアする際の常套句だったのかもしれない。ましてや、他の子どもの足の指の長さなど、知る由もない。しかし、とても素敵な言葉だと思った。足首を痛めている子供にこんな言葉を投げかけられるなんて、優しい人だな、と子供心に思ったことをよく覚えている。

 

 

果たして僕は今、両親より偉い人になれているだろうか。なれるはずないとも思う。自分の生活を犠牲にして、別段にやりたいことをしているわけでもなく労働に時間を費やし、どんな酷い言葉を吐きながらでも子供二人を養ってきた親父。母親も同じだ。どれだけ我々の存在で不自由な想いをさせてきただろう?

 

 

就職活動でボロボロになりながら、「やりたくないことはやりたくない」という想いを免罪符のように掲げる折、時々こんなことを思う。僕は両親ほど偉くはないし、かれらの優しさに生かされて居るのだと。結構なことから逃れてきた。人間関係だったり勉強だったり、染み付いた怠惰な根性から中々抜け出せずにいる。

 

 

もしかしたら就活でそのツケがまわってきたのだろうか?父も母も、とてもじゃないができた人間ではなかったし、弱い部分もたくさん知っている。そのことでたくさん悩んだし苦労もした。それでも、彼らは優しかった。そんな優しさが、いまでは酷く皮肉っぽく感じてしまう。

 

こんな息子でごめんなさい、という気持ちで過ごす5月の週末。

 

僕も、父親よりスーツを着てる奴らの方が偉いと思っていた。

西川美和の『永い言い訳』を観た。二度目だ。

 

本作は見事な二項対立を描いている。

頭は良くないが思いやりに溢れ直情的なブルーカラーの父親、そしてインテリではあるが妻のことを顧みず不倫を繰り返す向こう見ずな作家。

 

作中では、キーパーソンである小学生の男の子が、母親を亡くし、また上記の作家と出会う事で、次第にブルーカラーのお父さんを蔑むようになる。彼は父親が無教養であることに嫌気が刺し、ついには父親に「お父さんなんかに何もわかるはずない」という悪態をつく。しかし彼は知らない、そんな父親が睡眠時間を削って身体を使っているからこそ、自分が飯も食えて屋根の下で眠り塾にも通って将来のことも考えることができているということに。

 

 

このあたりの心理描写が非常に身に迫るものがあった。

 

そういえば自分も、父親がバカで無教養の塊だと決めてかかり、どうせ言ってもわからないと説明を放棄し、勉強できる奴の方が偉いのだと心の中で怒鳴っていた時期がある。本当に愚かだった。

 

今回帰省し、就活があまりうまく行っていないことを父親に伝えた。すると彼から「うまく行かなかったら就職浪人すればいいがね」という予想外の言葉を頂いた。え、いいの?まさかそんなこと言われると思っていなかったので、心底驚いた。

 

そういえば、大学受験する時も「好きなところ受ければええ」と言って、入りたい大学全て落ちればまた家族の反対を押し切り「浪人すればええ」と言った。

 

 

 

父親は古い人間だ。それなのに。就活のことも、大学受験のことも、何も知らないのに。

 

お前の人生なんだから、と寂しそうに親父は言った。地元に帰って来いというのが口癖の親父。それでも俺がここに帰って来るはずはないということを、本当はわかっていたのかもしれない。