遠く 知らない街から 手紙が届くような

ビジネスにも自己啓発にも興味が無い経営者の嘆き

嘘をついている気がする

会社の人と話をしていると嘘をついている気持ちになる。

会社の人たちはとても仕事を頑張っている。少しでも生活を豊かにするために熱心に仕事をしているし真剣に打ち込んでいる。出世することに対して責任を負うのは嫌だが年収を上げるには必要なプロセスだと考えている。

そういった人たちと話をしていると嘘をついているのではないかという罪悪感にかられる。僕は今の仕事に対して全く向上心もないしただ毎月お金を振り込んでもらうための機能でしかないと思っている。だから熱心に仕事の話はしない。会社の飲み会にも参加しない。結局仕事の話になるからだ。おかげで気まぐれで飲み会に参加するとみんな丁寧にそして熱心に仕事の話をしてくれる。それはそれで困るのだけれど。

ではなぜ僕が仕事に熱心ではないかと言うと今の仕事に興味が無いからだ。元々映画や出版物が好きでそれらに携わりたかったのだが、やはりそれらを生業とする企業に就職できたとしても好きな映画や出版物を手掛けられる可能性はとても低い。それはそれでもっと噓をついている気持ちになっていたと思う。だから単純にモテそうな外資系の企業に就職してからそれからのことを考えようと思った。モテるためになら自分に嘘もつけると思っていた。

だが当たり前だけど外資系の企業に就職したからと言ってモテるわけではないし、そもそも僕はそこまでモテたい訳ではなかったようだ。「モテ」を好きなことから逃れるための免罪符にしていたのかもしれない。

今僕は本業とは別に友人と会社を経営している。だがその仕事内容も別に好きなわけではない。結局はありあわせの素材を繋ぎ合わせてこれはやる意味がある事業なのだと合理化しているだけだ。経営者とは名ばかりで実態としては地元の中小企業から無理難題のオーダーをこなしながら、あるいは無理難題を押し付けられた企業からのしわ寄せをうまく捌きながら存続しているに過ぎない。まあそれがそこそこ面白くはあり、僕としては真っ当なキャリアを築くつもりもないのでこちらの経営の方を何とかしなくてはと思っている。ただやはり自分に嘘をついていることに変わりはない。

時々何もかも忘れて過去に戻りたい気分になる。一人になって孤独に浸りながら底なしの渇望感に正面から向き合いたい気持ちになる。少し前までは満たされない気持ちが僕を突き動かしていた。しかし今はと言うとそこそこ満たされてしまっている現状のそのまさに「そこそこ満たされている」部分に不満があり、もう僕はどこにも行けないことがとても恐ろしくなる。

あるいはどこまででも行けるのではないかと思い僕はまた日記をつけ始めているのかもしれない。

村上春樹の読者は他に何を読む

村上春樹の長編も短編もエッセイもほとんど読んだ。読むものがなくなって軽く絶望を覚えるくらいには僕は村上春樹を読んだ。

その他の作家の作品ももちろん読むが、やはり幻想と現実のちょうど良い居心地の物語とその浮遊感を一貫して描き続ける作家は中々いないのではないかと思う。村上春樹をよく読む読書家は他にどんな作品を読んでいるのだろうか。

ちなみに「村上春樹 好き 似た作家/おすすめ」などと検索すると、「村上春樹から影響を受けた~の作品」「村上チルドレンの~」というような文句で色々な作品が勧められていて辟易としてしまった。

違うんだよ。彼のコピーを読みたいわけじゃないんだよ。なんとなく村上春樹に影響を受けた作家、と謳われると一切の読む気が損なわれてしまう(この気持ちがわかる人も多いはずだ)。

きっとその理由は、僕自身が彼の作品を読んだ後に何か(なんでもいい、ツイッターでもブログでも)を綴り、とんでもなく痛々しい文章が出来上がったことを何度も体験したことがあるからだ。例えば僕はノルウェイの森を定期的に読み返すのだが、どうしてもこれを読み終わった後は何もかもを失って世界から拒絶された主人公のような口調になってしまう(昔付き合っていた年上の彼女にそれを見透かされてずいぶん恥ずかしい気持ちにもなったことである)。

これは僕を例外せずとも多くの人が体験されているのではないかと思う。そして実を言うとこのブログの語り口がほとんどその影響を受けたことを如実に表しているのであるので久々に更新することがとても恥ずかしい。

 

というわけで村上春樹の作品が好きな方はほかにどんな作家を読むのか教えてほしい。

ちなみに僕は小川洋子(『海』)、原田宗典(『優しくって少しばか』)、池澤夏樹(『スティルライフ』)、江國香織(『きらきらひかる』)、宮本輝あたりが好きで、あとはかなり雰囲気は異なるが山田豊子なんかも読む。『不毛地帯』は悲しくて面白くてこの大作を読んでいる月にはしばらく寝付けない日々が続いた。堀江敏幸(『おぱらばん』)も好きだけどちょっと僕には難しい。

あとは僕自身あまり読まないが『さようなら、ギャングたち』の高橋源一郎なんかを読む方も多いのではないだろうか。

 

そのほかだとちょっと調べて気になったのは

・『スローなブギにしてくれ』片岡義男
・『キャピタル』 加藤 秀行
・『ベルカ、吠えないのか?』古川日出男

当たりは読んでみたい。なるべく村上春樹の恋愛小説に染まっていなそうな作品を選んでみた。特に片岡義男さんの作品なんて時系列的に影響を受けたとはいいがたいだろうし。読んだらまた更新する。

 

というわけで4年ぶりくらいにブログを書いてみた。僕も社会に揉まれ少しは現実に近づいているのではないかと思う。

西瓜と渓の朝

頭がぼんやりしていたので、気晴らしに散歩に出た。大学近くの椿山荘から江戸川橋の方へ向かい、茗荷谷辺りに着くと奇妙な看板が目に留まった。

ワンルームマンション建設反対!~町の環境を守ろう』

茗荷谷と言えば高級住宅街である。現代的な洒落た建物ばかりで、中々都内ではみることのない風景の中、例の看板がぽつんと立っていたのだ。

僕は、どうして反対なのだろう、と思った。マンションだからいけないのか?それともワンルームだから?そもそも茗荷谷にあるこの町の環境とはどんなものなのか。この風景の中にワンルーム・マンションができたからといっても、景観を損なうことなどないだろう。

ひょっとしたら、ワンルーム・マンションという集合住宅について、比較的安く済むことができる点が問題なのだろうか。この環境のバランス、すなわち一定の収入を持つ者たちが構成する地域にとって、ワンルーム・マンションに住む独り身(つまり、それは僕のような男である)というのは、随分と異質な存在なのかもしれない…。

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そんなことを考えているうちに、昼食の時間時になった。音羽町の、講談社のある大きな道沿いを歩いていて、相変わらずのんびりした街だなぁと思った。まるで商売っ気が無い。すれ違う人々も上の空だ。永遠と続く一本道には、まばらに飲食店が立ち並んでいる。

その中で迷いながらも、生姜焼きやエビフライ、ポークソテー、サーロインステーキをランチメニューに掲げた、洋食屋とも定食屋とも判断がつかない、これまた年季の入ったカフェに入った。コーヒーが付くということだったので、ここで昼をゆっくり過ごしたかった。初老の夫婦らしき男女が店を切り盛りしており、居心地は悪くなさそうだった。

生姜焼きを選ぶ。きっと、薄いお肉が3,4枚お皿にこぢんまりと乗せられて出てくるのだろうと思ったのだが、全くそんなことなかった。付け合わせのサラダのヴォリュームもさることながら、ポテトサラダもついており、肝心の生姜焼きは分厚い一枚の肉が均等にカットされていて、おまけにその下には香ばしい匂いを放つ飴色の玉ねぎがたくさん敷かれていた。控えめな味付けの味噌汁が、冷えた身体に染みわたっていった。

これはうまい、と思いながら夢中で料理を口に運んでいると、おばあさんが机の上に、これもどうぞ、と言って小皿を置いて行った。それは肉じゃがだった。ここはカフェだったよな?と何度も頭の中で反芻しながらたいらげた。食後のコーヒーは少し薄かったけれど、おいしく頂いた。

壁には様々な油絵がタイトルと共にかけられていた。そのどれもが趣のあるもので、定食屋だか洋食屋だかカフェだか喫茶店だかよくわからないこのお店にとても似合っていた。

なんだか、全てをほっぽり出して旅に出たくなる午後だった。

蛍が飛び交う頃きみは

僕は蛍をみたことがない。理由は二つある。まず、単純に蛍をみる機会に巡り合わなかったこと。そして、大学生のうちに一緒に蛍をわざわざ見たいと思える人に巡り合えなかったことだ。

 

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毎年この季節になると、早稲田大学の近くにある椿山荘というホテルが、庭園に蛍を放つ「蛍の夕べ」という催しを行う。大都会の中心にそんな催しがあるなんてとても素敵だ。曇りがちな都会の夜にこそ、孤独な人々を照らす星が必要であるように、都会にこそ忘れがちな情緒を思い出させる蛍の灯りが必要なのだと思う。

 

けれども、僕は蛍をみたことがない。この季節になれば、大学のそばで貴重な命を燃やしながら蛍が飛び交っているにも関わらず、だ。

 

…この催しの存在を教えてくれたのは、昔付き合っていた年上の女性だった。

 

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彼女も僕も村上春樹の『ノルウェイの森』の大ファンだった。よく大学のそばを二人で歩いた。作品の主人公である ”わたなべ“ が下宿している寮は、大学の近くにある学生寮をモデルにしたものだということも、その姿を消す前に “突撃隊” が蛍の詰まった瓶を主人公に渡すシーンは、大学のそばにある椿山荘のその催しを汲んでいるということも、教えてくれたのは彼女であり、それは彼女の隣を歩いているときだった。

 

残念ながら、彼女と付き合い始めたのは僕の大学1年生の夏休みが始まる頃だったので、その年に蛍を見に行くことは叶わなかった。彼女とは、くっついては離れる、どうしようもない関係をずるずると続けた末、今まで何事もなかったのように綺麗に別れた。その頃には蛍など頭の片隅にすらなかった。

 

そのような関係が終わってから、もうじき今年で二回目の初夏を迎える。今年も「蛍を見にいこう」なんてキザな誘いに嬉々としてついてきてくれるような女性とは巡り合えなかったし、そんなマトモな関係を人と築く努力を、いやマトモに人を愛せるような自分に変わる努力を、怠ってきた。

 

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それは普通の人が「今年も一緒にクリスマスを過ごす恋人ができなかった」と嘆くのと全く同じことで、僕は「今年も蛍を見に行くことができなかった」と嘆くだろう。

 

初めての何かを知るなら、大切な人とが良い。バカみたいかもしれないけど、そんな想いがずっと心の中にある。だから蛍も見にいかないし、浅草にも行ったことがなく、もっと言うと江の島にも行ったことがない。これが自慢になればいいのだが、悲しくも自慢にはならない。

 

 

今年も、蛍が飛び交い始める。そんな折り、僕は誰の顔を思い浮かべればいいのだろうか。正直見当もつかない。もうそろそろマトモに相手を見つけるのは諦めろ、と、日が暮れるとより一層荘厳な佇まいを携えるアイツに言われているかのようだ。

 

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