不感症。一般的に定義されるものは性的接触に対して快感を覚えない人の性質を指すことだろう。
このブログでは度々自分が不感症であることを取り扱ってきたが、その意味は「滅多なことでは心を動かされない」というような心情のあり方であったように思う。
何についても楽しみや感動を見出せない、特に人間関係については全てが気怠く思える時期があった。というかフラットでその状態なのですが。そんな僕も、鋭く突きさす様な痛みをくれる女性と出会った。
その女性と、飲みに行ってきた。どうしても書きたいので、書きます。
結論から言うと、彼女は僕よりも不感症だった。
彼女と会話のリズムが絶望的に合わず、彼女の魅力を存分に引き出せず、むしろ悪い側面ばかり見つけてしまった。けれどその会話の節々のトゲは余計に痛みを伴うもので、彼女がどんな時に悲しむのか。どんな時に楽しいと思うのか。どんな時、泣いたり笑ったり、寂しくなったり、幸せな想いを感じるのか、それらを僕に無性に知りたくさせた。そう思ったときには時すでに遅く、頑張ったつもりではいたがなかなか会話も盛り上がらず、ペースもつかめずに手持無沙汰になった。
彼女は感情を全く表に出さない女性だった。悲しいとか楽しいとか嬉しいとか、確かに言葉の上ではそのような表現もあったが、彼女の心のあり方が全くつかめなかった。算数のテストのように、いちたすいちは何か、そんな問答が続いてしまった。
それでも彼女は何も気にしていないようで、落ち着き払っていて、何を考えているのか全く分からず、恐らく何も考えていないのだった。
本当の不感症とは。
自分が不感症に陥っている事すら感じなくなることではないのか。
そうして、目の前の相手に興味を持てず、どう在りたいかという事を見失うことではないだろうか。
彼女が、引いては自分が不感症ではないという事を証明したかった。なんてエゴイズムなのだろう。その前に、魅力的な人間であれた自信がない。もっとうまくやっていたら、少しでも状況は違ったかもしれない。
それでも、帰り道の暗がりを恐れる彼女の様子が愛おしくてたまらかった。なんでもいい。価値観?人生観?リズム?ペース?相性?セックス?そんなの知らん、彼女のことを無性に抱きしめたくなってしまった。
これはまぎれもなく痛みであり、鋭いものから鈍い音を伴うものへと段々変わっていった。彼女を初めて抱きしめた時に覚えたやりきれない想いは、間違っていなかった。
この痛みがいつか、彼女にも伝わればいいのに。